【啓発】STOP!「かわいそう」プロジェクト③

お役立ち情報

お久しぶりです。STOP!かわいそうプロジェクトのまとめ記事です。これをもってひとまずまとめとしたいと思います。
過去の記事はこちら。

久しぶりになってしまいましたが、しばらく時間をかけてこのプロジェクトの必要性なども踏まえて考えていました。

色々と考える中で、また過去の記事を読み返している中で、「人を変えようなんておこがましいな」とか「人の行動について良い悪いの判断なんてするべきじゃないな」という思いが強くなりました。

なので、私はこれを読んだ人を変えようとは思っていません。押し付けるつもりもございません。
ただ、このような考えもあることを知っていただき、参考にしてもらえたらと思います。

【共感と同情】 「かわいそう」は同情?

「かわいそう」と声をかける時、相手の気持に寄り添った全く悪意のない言葉であることが多いと思います。ではなぜ傷つく人がいるのでしょうか。

STOP!かわいそうプロジェクト①の記事でも取り上げましたが、根本はこの考えが一番腑に落ちます。

共感と同情の違い

どちらも相手の気持ちに寄り添うことに変わりはありませんが、共感は相手の目線、同情は自分の目線です。

「共感とは、相手の目で見て、相手の耳で聴いて、相手の心で感じること。」

「同じ種類の心、同じ種類の人生を持っていたらどう感じるかを考える。自分の心、自分の人生で感じるのではない。」

「相手に寄り添う態度であり技術」

「他者の関心事に関心を寄せることで相手を知る」

「幸せになる勇気」岸見一郎・古賀史健 一部改変

共感は技術であり、そう簡単にできることではないです。どうしたら同情ではなく共感できるのか。それはまず相手を知ることだと思います。相手を知ろうと努力する行為自体が同情ではなく共感してくれていると相手は感じるのではないでしょうか。

相手のことを知ろうとせずに自分の見たままの理解(したつもり)で気持ちに寄り添おうとすること、これが同情であり、「かわいそう」という声かけによって相手を不快にさせる原因だと思います。

人を同情したり憐れむ気持ちをもつことは人類の災いの1つ

アランの幸福論より

慈悲喜捨のこころ 「かわいそう」は一概に同情とは言えない

仏教用語に「慈悲喜捨」という言葉があります。

「慈」相手の幸せを願う心。
「悲」相手の悲しみ・苦しみをそのまま理解・共感すること。
「喜」相手の喜び・楽しさをそのまま理解・共感すること。
「捨」手放す心。反応しない心。欲や怒りという反応に気づいてストップをかけること。
世間ではこれらをまとめて「愛」と表現する。
これは人間なら誰もが持っている心。

反応しない練習 草薙龍瞬 一部改変

STOP!かわいそうプロジェクト②で書きました、
・我が子に対して思う「かわいそう」
・「かわいそう」と言われても心配してくれてるとわかるからからありがたい
これらの「かわいそう」はこの慈悲喜捨の心からの言葉であると判断できる時、人はこころよく感じることができるのではないかと思いました。

なので、『かわいそう=同情』とは一概には言い切れないのかと思います。

「わたしメッセージ」と「あなたメッセージ」「かわいそう」はあなたメッセージ

わたしメッセージ(Iメッセージ)は共感的・受容的態度で表されやすいのに対し、
あなたメッセージ(YOUメッセージ)は審判的・批判的態度に写りやすいです。

これは心理学の世界では有名な言葉で、あなたメッセージはわたしメッセージに置き換えて相手に伝えることが大切だと言われています。

例えば
「(あなたは)どうして片付けられないのですか?」→「(私は)片付けてもらえたら嬉しいです」
「(あなたは)なんで約束を破るのですか?」→「(私は)約束を破られて悲しいです。」

「かわいそう」の主語は「あなた」です。
相手は審判的に受け取りやすいです。「かわいそうな人」と決めつけられたと感じます。

ただこれを「私はあなたのことをかわいそうだと感じました。」とわたしメッセージにしたとしても、良くなっていませんね。
慈悲喜捨の心を持って、共感的に相手を知ろうとする態度が必要かと思います。

まとめ

「かわいそう」と声をかけられる時、慈悲喜捨の心がなく、同情的である時に人は不快感を感じると思われます。そこに悪意のあるなしは関係ありません。

今でも「かわいそう」とSNS上や知り合った人から声をかけられます。

「カズマは立派に生きました。かわいそうではありません。幸せだったと信じてます。」

こう言うと「まあまあ、辛いのは分かるけど、そんな意地にならなくても。こんな小さいうちに亡くなっちゃったんだもん、かわいそうじゃん。普通じゃないじゃん。普通より幸せじゃないでしょ。」と反論が聞こえてきそうです。

「障がいを持っててかわいそう」
「病気を患っててかわいそう」
「若くして亡くなってかわいそう」

その人が幸せかどうかなんて分からない。障がいや病気や人生の長さが必ず決めることではない。

幸せそうな人に「かわいそう」と声をかけますか?
「かわいそう」と声をかけた瞬間、「この人は不幸せ」と決めつけられたと言われた方は感じてしまいます。

これは考えすぎでもなんでもなくて事実です。そう感じて傷ついている人がたくさん居ます(最初に挙げた3つの過去記事に実際に寄せられた体験談を多数載せていますのでご参照ください)。

カズマは幸せを感じてたと信じてます。闘病生活中も家族で何度も幸せを感じてめいいっぱい生きました。

と、かなりアツく語ってしまいましたが、最近は「かわいそう」と言われても「この方なりに慮ってくれているのだな。ありがとうございます。」と反応せずにただ受け入れています。

この記事で世の中を変えたいなんて大それたことを言うつもりはありませんが、何気ない悪気のまったくない「かわいそう」に傷つく人を減らしたいという思いは変わっていません。

「かわいそうだったね」「かわいそうに」と声をかけるまえに立ち止まって、慈悲喜捨の心共感について思い返していただけたら幸いです。

2019.6.26 大好きなソフトクリームのご褒美

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