【啓発】STOP!「かわいそう」プロジェクト その② 

日記

STOP!かわいそうプロジェクトの続きです。前々回、前回はこちら。

前回、私は「かわいそう」と思うこと自体良くないことと考えていることをお伝えし、「かわいそう」と思うことを否定する内容の記事をあげましたが、「かわいそう」と同情する気持ちは自然に発生する気持ちであり、親がわが子に抱くこともあります。私もカズマのことを「かわいそう」と思ったことが何度もあります。そのことを棚に上げて説明してしまい、「私は子どものことをかわいそうと思うことあるけどダメなのか」と不安にさせてしまったり、嫌な気持ちにさせてしまったりしていることに気づきました。前回の記事を読んで気分を悪くされた方がいらっしゃいましたら大変申し訳ございません。気づきをくださいましたコメント、メッセージ等ありがとうございました。心より感謝申し上げます。まずはこのあたりについて自分なりに考察していきたいと思います。

初期衝動としての感情的な「かわいそう」、愛のある「かわいそう」、支援につながる「かわいそう」、ひとくくりにされる「かわいそう」

カズマに「かわいそう」と思ったこと

2018.11.3 入院当初のカズマ

白血病と分かった時、入院が1年以上必要とわかった時、外へ遊びに行きたいのに行けない時、食べたいものが生禁で食べられない時、痛みに苦しみ擦って欲しいとすがってくる時、
はじめに感じる素直な気持ちは「かわいそう」。

前回の記事を読んだだけだとこの感情も否定していることになり、読んでくださった方が困惑してしまったかなと思いました。

この感情を否定することはできないと感じています。

この「かわいそう」は感情の一場面のような気がしています。共感に向かう前の初期衝動のような。この感情を飛ばして共感に向かえる人は少ないのではないかと思います。この感情を経由して、共感にシフトし、支えていくことにつながって行くと思います。

「かわいそう」には種類がある?

2019.8.28 採血がんばったね

前回の投稿で「かわいそう」と思うこと自体も望ましいことではないと言ったことの理由のひとつとして、「それが態度に出る」ということがありました。
例えば、カズマだったらつるつるになった頭でバギーに乗って介助されて外を散歩されている時、かわいそうと言わんばかりの視線と表情でバギーを見おろされること多々ありました。
コメントでも「かわいそうと哀れんでいる表情や視線が言葉以上に辛い」という態度についてのご意見も複数頂いています。

そういう経験やご意見があるため、やはり「かわいそう」と思うこと自体も望ましいことではないと思いました。

でも上で説明した親が我が子をかわいそうと思う感情を考えると「かわいそう」と思うこと自体を否定できないと感じます。

「かわいそう」に肯定的なご意見もいただきました

「かわいそう」と言われても肯定的なご意見をいただきました。

我が子に対して「かわいそう」と自分も思うし、言われても違和感はない
「かわいそう」と言われても心配してくれていることが分かるからありがたい
「かわいそう」から始まる支援の形、優しい気持ちもあると経験した
私も過去にカズマが「かわいそう」と言われても嫌な気分にならなかったことを思い返してみました。
お葬式の時、カズマの事が大好きでいつも抱っこしてくれたおばちゃんの「かわいそうに」とカズマと会ったことない地域の人の「かわいそうに」は感じかたが違ったのを覚えています。
どちらも同じ言葉ですが言う人が違うと感じかたが違いました。
人によってというより、「愛がある」と感じられるかどうかかなと思います。
「かわいそう」と言っている人が愛を持って言っている場合、言われている側がその愛を感じられた場合は傷ついたりしないのかなと思いました。

「かわいそう」と思った後、言った後の行動も重要か

例えば、カズマが転んでひざを擦りむいてしまったときにたまたま出会った人が「あら、かわいそう、ちょっと見せてみて、よし、これでいい」と傷の処置をしてくれたら悪い気がしません。というか普通に嬉しいです。
つまり、「かわいそう」と言った後、どのように行動するかもとても重要な要素なのかなと思いました。
「かわいそう」という初期衝動から「支援」ということに繋がっていれば人は嫌な気分をしないと思います。

一番傷つくのは「かわいそうな人」とくくられることかなと思います。

やはり「かわいそう」には種類があるように感じます。

時間的に分類すると、
最初に感じる「かわいそう」最終的に落ち着く「かわいそう」

思う人・言う人で分類すると
愛があると感じる「かわいそう」(たとえ愛があっても)愛を感じない「かわいそう」

その後の行動で分類すると、
支援につながる「かわいそう」ただ「かわいそう」と思ったり言ったり

親が感じる「かわいそう」は初期衝動として今後共感・支援につながる、もしくは愛のある「かわいそう」が多いのではないかと思います。

言われている側が愛を感じない場合、最終的に「かわいそう」と思ったり、言ったりすることは同情しつつ「かわいそうな人」と結論づけているように私は感じます。

そのように「かわいそう」とくくられることが一番人を傷つけるのではないかと感じます。
「かわいそうな人」とくくられたとき、見捨てられた感、放り出された感、見下された感、みじめ感、ふびん感を感じてしまいます。

(他にも私の考えが及んでいない「かわいそう」があると思います。これはあくまで私個人の考えです。)

「かわいそう」という言葉に苦しんだ例、思いをピックアップ

前回の投稿後、さらに「かわいそう」と声を掛けられて辛い思いをした経験や思いをInstagramのコメント欄やDMなどで頂きました。また、前回の投稿の感想も頂きましたので併せてこちらにまとめます。

  • 娘を見た友人が「小さいのにかわいそう、かわいそすぎる」と入院の度に言う。「自分の子どもだったら耐えられない」というような意味で言われたので、「かわいそうじゃないから、かわいそうと言うならもう連絡してくるな」と伝えインスタもブロックしたぐらい「かわいそう」という言葉が嫌い
  • 今のところ「かわいそう」と言われた事はないが娘が言われることを想像したらかなりショック。
  • 自分の子どもだけでなく、小児がんの子どもに向けられる「かわいそう」には納得できない。
  • 「かわいそう」という言葉、普段何気なく使っていましたがハッとさせられました。
  • 「かわいそう」ってそれだけで「立ち位置」が違うような気がして嫌い
  • 障がいを持って「かわいそう」と言われるようになったが、自分も障がいを持つ前に言っていたように思う。これから変わりたい
  • 子どもが食べられないというと「かわいそうに」と必ず言われ違和感を覚えるので賛同する
  • 「頑張れ」は傷つかずに受け入れられる。でも「かわいそう」は上から目線の他者の感想でKing of DOUDEMOII。あまりにも身勝手な感想。この活動支援します。
  • 「かわいそう」はいつも赤の他人の通りすがりから言われる。どれだけ頑張ったかも何も知らないのに言われる「かわいそう」はがんばってきたものをぶち壊される気分。通り魔に傷つけられたようだと感じる。
  • 病院のエレベーターで点滴に繋がれた我が子を見る顔や目ですら、絶対かわいそうと思っているように感じる時があり、心の調子によっては傷つく。我慢させたり辛いこともあるけどその分愛情を注いでる!と反論したくなる。
  • アレルギーが多く食べられないものが多いため、実の母が来る度「かわいそうに、何食べてるの?」と。兄弟が食べているものが食べられないので切なくなるが「かわいそう」といわれるともやっとする。
  • FBで拡散しました!

「かわいそう」は必ず嫌な気分になるものではないが、言う前に一度立ち止まって考えてみて欲しいなと思います。

初期衝動の「かわいそう」、愛のある「かわいそう」、支援につながる「かわいそう」があり、必ずしも否定されなければならないものではないと考えを改めました。

しかし、「かわいそう」と伝える前に一度立ち止まって考えてみて欲しいです。

その「かわいそう」は共感につながり、支援に繋がる、愛のあるものですか?
相手を「かわいそうな人」とひとくくりにするように取られる可能性があるなら伝えるべきではないです。
何度も言いますが、「かわいそう」と言われた側には辛い思いをする人がいます。悲しむ人がいます。そこに悪意のあるなしは関係なく、全ては受け取る側の目線で考えるべきだと思います。

読んでいただきたいありがとうございました。
共感していただけた方、また、私とは違う考えをお持ちの方も、是非コメント欄で教えていただけたら幸いです。
次回はフライヤーを修正してお見せしたいと思っています。
よろしくお願いいたします。

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